にげうまメモ

障害競馬の個人用備忘録 ご意見等はtwitter(@_virgos2g)まで

16/04/16 Japanese Racing - Sustainability of Jump Racing -

*障害廃止論について雑感

f:id:virgos2g:20181116211402j:plain

少し時間が経ってしまったが、以前twitterでこんなアンケートをお願いしたことがあった。まさか100人を越える方々に参加していただけるとは思っていなかったし、中山グランドジャンプという春の大一番も終わり日本障害競馬も一区切りがついたことなので、こちらで少々個人的な雑感を書いてみたい。

 

・海外障害競馬と日本障害競馬の比較

ぼちぼち雑感を書く前に海外障害競馬と日本障害競馬を簡単に比較してみたい。

日本障害競馬の1レースあたりの賞金額は他国に比べて桁違いに高いことで知られる一方で、全体の規模(出走頭数、レース数)としては障害競馬大国であるイギリス・アイルランド、及びフランスに続く二番手集団といったところである。すなわち、Velka Pardubickaを頂点にしてCross Country王国で知られるチェコ、馬の頭ほどもある生垣障害やダイナミックなCross Country Courseを持つMerano競馬場を擁するイタリアと同規模であり、アメリカ・ニュージーランド・オーストラリアと比べるとやや大きい。レース体系としてもこれらの国々と同程度には整備されていると考えてよいだろう。ちなみにこれに続くのがドイツ、ポーランドスウェーデン、スイス、スロバキアなどだが、この辺りになるとかなり規模としては小さいものとなる。

国際交流という面では、イギリス・アイルランド間やニュージーランド・オーストラリア間で馬の交流が盛んであり、またヨーロッパ各国の間での馬の交流は非常に多い。特にフランス馬はイタリアやチェコ、ベルギーなどに積極的に遠征している。また、他国からアメリカへの遠征もそれなりに存在する。一方で日本障害競馬は以前こそ中山GJに国際色豊かなメンバーが集まっていたものの、近年は同レースの国際招待競争から国際競争への格下げも相まって遠征馬が極端に減少し、そのガラパゴス化の進行が懸念される。

障害はご存知の通り掻き分けて飛越するタイプであり、これはフランスやドイツ、イタリアなどに見られる比較的一般的なものである。高さとしてはイギリス・アイルランドやフランス、チェコ、イタリアの一部に見られる派手なものではなく、どちらかというと控えめである。ただし日本のものは比較的しっかりと掻き分けて飛ぶことが必要であり、従って障害としては比較的スピードが要求されるものだと言えよう。

 

日本障害競馬の特徴としては主に三点。第一に、Hurdle競争とChase競争の区別がない点である。基本的に障害競馬開催国では飛越する障害に応じてHurdle、 Chase(一部にはこれに加えてCross Country)のレース区分が存在する。日本障害競馬の場合、競馬場によって飛越する障害に特色があるといえば確かにそうだが、諸外国におけるHurdleとChaseのように大きな違いがあるわけではないことは注意したほうが良いだろう。

第二に、斤量の軽さが挙げられる。諸外国の障害競馬における負担重量では60kg越えは当たり前であり、70kg以上の斤量を背負わせる国も数多く存在する。その中で50kg後半から60kgちょっとの斤量で走らせる日本はかなり特殊である。もちろん諸外国でもハンデ戦において軽量馬がこの程度の斤量を背負う場合は存在するが、基本的には60kg以上の斤量を背負って障害競走に挑むと考えて差し支えないと思う。

第三に、去勢の有無である。諸外国の障害競馬において、牡馬は殆どの場合が去勢されセン馬として障害競馬に用いられる。牡馬を未去勢のまま障害競馬に用いる日本は世界的に見て非常に特殊である。セン馬にする効果としては気性の改善や筋肉の質の変化など様々であるが、主には操縦性の改善が目的だろう。日本障害競馬では実力馬が種馬になる可能性を残しているといえば確かにロマンはあるが、一方で気性面のリスクが相対的に高いことは注意しておいた方が良い。

 

付記1. その他本筋とはやや外れる雑多な諸々はここに書く。その他の違いとしては、日本障害競馬はゲート式のスタートを用いる点が挙げられる。諸外国障害競馬においてスタートはほぼバリア式であり、ゲート式のスタートはオセアニアに多い。コースとしては比較的オセアニアのものに近く、起伏の少ない平坦なものである。日本の競馬場にも坂はあるじゃないかって言ってる方はChepstowやPunchestown競馬場を見ればよい。 未勝利・オープンというレース区分のみであることはオセアニアと同様であるが、ニュージーランドにはごく僅かにNovice競争も存在する。

付記2. 日本障害競馬には「途中棄権」という概念がないことは特筆しても良いだろう。諸外国の障害競馬では、先頭から大きく離され勝機がなくなった場合や馬が著しく疲労した場合などは途中棄権が認められる。むしろそのような馬を競争続行させることは動物福祉上問題視される。例えばWayward Princeという馬は2014 Grand National (G3)に晴れて出走したはいいものの、先頭からはるか離れた後方に置いていかれ、ヘロヘロになったにも競争継続させられ、最後は落馬して問題になった (馬は無事だった模様)。日本障害競馬ではよく「目指せ全馬完走!」ということが一種の美学のように言われるが、著しく疲労した馬に障害飛越を強いることは非常に危険で動物福祉に反する行為であることは強く認識すべきだろう。

 

・障害とかいらなくね? に対する反論の反論から

障害競馬廃止論に対する反論として、「競走馬とは走るために生まれてきた動物であり、その活躍の場として障害競馬は必要である」という主張がなされる。これ自体に意義を唱える気は全く無いが、もう少しメタに捉えてみたい。競馬法第一章第一条に「馬の改良増殖その他畜産の振興に寄与するとともに、地方財政の改善を図るために行う競馬」という記述がある。確かにこの記述を論拠に、競走馬の活躍の場としての障害競馬の必要性を訴えることは可能である。つまり「競争の場」としての障害競馬であり、競馬産業における多様性と規模の重要性は言うまでもないだろう。しかし、一方で現状を鑑みるとこの主張はやや安易に過ぎる。すなわち、障害競馬が馬にとって非常に故障リスクの高いものとなっていること、故障馬の引退後のケアのコスト、また乗馬産業への障害競馬の影響(日本障害競馬における障害飛越と乗馬における障害飛越は似て非なるものである)を鑑みると、この記述から障害競馬の必要性を論ずるのはやや短絡的に過ぎるだろう(特殊な例だが、中山大障害にて予後不良寸前の脱臼を負ったメルシーエイタイムの引退後のケアは、受け入れ先の牧場に大きな負担を強いることになった)。要するに、障害競馬を使うことでその後の馬のキャリア形成がむしろ困難になる可能性と同時に、他の馬事産業に対し馬の管理上の難しさの増大を通じてコスト面での悪影響を及ぼす場合があるということである。これが畜産振興と馬の改良増産という競馬法の趣旨に反することは言うまでもないだろう。

果たして、現状の日本障害競馬は本当に馬事文化の振興に寄与しているのだろうか?

 

付記1. ただしこの主張に対しては、他の馬事文化における馬の需要頭数の拡大可能性の悲観的な将来予測、及び障害競馬経験馬の相対的な少なさを考慮すると、必ずしも他の馬事文化に著しい悪影響を及ぼすとは言えず、競馬法の趣旨に反することはないという反駁が可能である。

付記2. この主張の是非はともかく、この主張をするにあたって論拠とした日本障害競馬における問題点を幾つか指摘したい。第一に競走馬の故障リスクである。諸外国において障害馬は長く活躍することで人気を集める場合があるが、日本障害馬の活躍スパンは障害競馬それ自体の性質から本来あるべきものよりも遥かに短い。 一時期JG1勝ち馬が軒並み故障で離脱していったことは記憶に新しいだろう。これは競馬ファンの中に落馬への忌避感を生み、障害競馬に対するイメージダウンや心理的恐怖感・嫌悪感、直感的な動物愛護精神の発生に繋がる。馬が可哀相だから見ない、落馬が怖いから見ない、強い馬や好きになった馬がすぐいなくなるから見ない、というのはその典型であり、無視できない文脈である。第二に人馬の関係性の問題である。日本障害競馬は馬をかなり自由に走らせる傾向にあり、飛越も馬任せの部分が非常に大きい。日本障害騎手の技術的な問題もあり、これは馬を制御する人間という諸外国の関係性とは相反するものである。諸外国の障害競馬において引っ掛かる馬はほぼ皆無であり、「馬に障害競馬を教え込む」ことを主眼とした下級条件戦では鞍上は死ぬ気で行きたがる馬を抑えるのが普通である。馬と喧嘩したまま5000m走るなど日常茶飯事であり、それが出来ない騎手は淘汰される。また上のクラスで引っ掛かるような問題を抱えている馬は悉く大敗していることからもこの関係の異常性は分かるだろう。

Blackstairmountainの中山GJはいい材料だと思う。 Ruby Walshと他の障害騎手の技量を比べれば一目瞭然だろう。馬を御す、という単純だが根本的な技術の違いである。ちなみに Blackstairmountainをアイルランドの超一流馬と考えている人は多いが、本国では空き巣G1を勝ってきた程度の二流の馬である。事実、短距離Chaseの最高峰Queen Mother Champion Chase (G1)に出走しているが全くペースについていけずに大敗している。あれを超一流と評するのならばSprinter Sacreは何だろうか?

付記3. 馬が好きな方にとっては酷な話かもしれないが、馬は愛玩動物であると同時に経済動物であるという難しい側面を持つ。事実、獣医学的に治療が可能であっても そのコストがリターンを上回る場合は治療が見送られる場合がある。例えば十数戦して全て最下位に近い惨敗、血統的にもいいところがないような馬が予後不良寸前だが治療可能な重傷を負った場合に、果たして治療を行うだろうか。

付記4. 文化とは守ると同時に発展させ、次世代に伝えていくものである。守らなければならないという主張はそれ自体は一つの正義であるものの、それと同時にただの思考停止であり、発展性と持続可能性という重要な観点が欠落している。日本障害競馬それ自体もまた文化であるが、単に守ることに意味があるという主張は上記の理由から偏狭な視野に基づくものだろう。

付記5. わたし自身、馬の能力とは多次元的なものであり、様々な場面において様々な側面からそれが試されることこそが競馬の醍醐味であると考えている。しかし、ここから障害競馬の改善策の一つとしてよく提案される現状の障害競馬傾向に即した障害G1の条件変更を主張するのはやや安易に過ぎる。現状の障害競馬の規模において、その頂点であるG1競争は障害馬の目指すべき姿を暗示するものでなければならない。単純に全体的な馬の傾向に合わせた競争条件への変更は現在の トレンドバイアスを偏重させるものに堕ちる可能性が高い。つまり、日本障害競馬のガラパゴス化が進行し、かつ平地のスピード重視、馬を自由に走らせる傾向などの増大の背景にある現状のトレンドを強化させる方向の条件変更は、現在障害競馬が抱える多数の問題の増悪にしかならない。

また、ここから「障害飛越能力を持った馬の活躍の場としての障害競馬」という主張を引き出すのもまた安易に過ぎる。日本障害競馬における障害飛越は前述の通り世界各国のそれに比べると、平地のスピード能力で押し切れるものであり、レース条件としてもそのようなものに設定されている。この主張を述べるのであればより飛越能力が要求されるレース条件への変更が必要となる。

 

・おかねもうけもかんがえないとね

文化的な側面から雑感を書いてみたが、競馬産業は文化であると同時にビジネスという側面を持つ。当然のことながら競馬開催を行うに当たっては様々なコストが掛かる。そ して、障害競馬は通常の平地競馬に比べて余計なコストが掛かることは言うまでもない。例えば障害専門コースの馬場整備、騎手の障害騎乗手当て、障害の整備や設置、障害練習、そして落馬事故の頻度の高さに伴う現場の獣医師や医師の負担である(事故馬の処置が獣医師にとって非常に危険な仕事であることは言うまでもない......)。当然優勝賞金も日本水準に支払う必要があり、このようなコストに見合った馬券売り上げが得られることは必須条件である。その点で、売り上げに対して批判的な意見が呈されることが多い日本障害競馬には疑問が残る。特にJRA側の障害競馬に関するPRの少なさはそれを考える上でいい材料だろう。障害競馬よりも平地重賞をPRした方が効果が高いと考えているのか、障害競馬に関してはPRに見合った投資効果が得られていないと判断しているのか。JRA 側の取り組みに問題があることは明らかであり、それを批判することは簡単だが、むしろJRA側の意図を考えるほうが生産的だろう。

 

付記1. この解決には馬券の売り上げを伸ばすことが基本線となる。そういった点でファン層や関係者によるアピールは重要である。ただし、前述のような障害競馬自体 の問題が解決されなければ折角集めた新規のファンも離れていく。そのような層は障害競馬自体に対する悪いイメージを持って離れていき、むしろ障害競馬に対するネガティブキャンペーンを行う場合がある。例えばオーストラリア障害競馬は頭のおかしい動物愛護団体のせいでかなりの縮小とレース水準の低下を強いら れている(例えばアドマイヤラクティの事故の際にムチの使用を云々という話が何故か日本でも報道され、一定の支持を集めていたようだが、あれはオーストラリアの動物愛護団体のキャンペーンである)。従って、安易なアピールはかえって障害競馬自体にとってはマイナスになる可能性があることは指摘しておきた い。

もっとも、この話はコンテンツ全般に言えることだが。例えば10万円かけてようやく手に入るようなキャラを売りにする大々的な広告は、ソーシャルゲーム全体にとって長期的に有益なやり方だろうか?

付記2. 馬も騎手も「都落ち感」が否めない、ということは無視できない文脈である。ただし、馬のキャリアに関してはイギリス・アイルランド・フランス以外の各国でも共通する話である。障害競馬の地位を高めるには目に見えた障害競馬の体系化が重要だろう。騎手は悪いが本人たちの努力しかない。障害騎手は障害競馬のアピールやファンサービスなどを積極的に行っており、これは非常に素晴らしいことだと思う。しかし同時に障害騎手としてその技術の特殊性と専門性のアピールをメディア・レースでの双方で行う必要がある。

付記3. レース数の少なさはしばしば指摘されるが、上記の通り日本障害競馬の規模自体はそれなりのものがある。ただし障害騎手が足りていない現状、また諸外国の障害競走と比較した際の1レース毎の出走頭数の多さ、出走頭数の増加に伴う落馬事故リスクの増大を鑑みると、レース数を増やすことは確かに一案かもしれない。もっとも平地競馬の優位性を考慮するとこれはあまり現実的な策ではないが。

付記4. アメリカナイズされたコースが単調に見えるという指摘も頂いた。ある意味日本の競馬場の特質を考えると致し方ない部分だが、下級条件戦や平場戦と重賞において対象とするファン層の違いを作り出すことは必要だろう。特に重賞においてはライト層へのアプローチが必要となるため、よりスペクタクルで迫力あるレー スを行う必要がある。これを支えるのが下級条件戦における障害飛越能力の鍛錬だろう。世界最高峰の障害レースである英Grand Nationalは、イギリス・アイルランドに存在する巨大な障害競馬体系、そしてその裾野に広がる草競馬やPoint to Point Racing、そして歴史ある馬事文化に支えられている。要するに未勝利戦なんぞでリスキーなレースをする必要など無いのだよ。でもそんな未勝利戦でも、飛越スキルの潜在能力の高い馬を見つけることが出来れば楽しいよね?

付記5. 要するに平地のスピードの勝負で面白くない、という点はしばしば指摘される。障害飛越という技術に対するアピールの強化は必要だろう。もっとも、スピードで乗り切れてしまうタイプの日本の障害に問題があるとも言えるが。平地のスピードがあるということで期待されながらも、アイルランドHurdleでは全く芽が出なかったグレイトジャーニー産駒Max Dynamiteという馬のキャリアは面白い参考例だろう。

付記6. 落馬リスクが存在するため賭博としての魅力が少ない、という点は無視できない文脈である。しかし、この背景には日本障害競馬における落馬による事故リスクの高さがあることを指摘しておきたい。これによって生じるのは、落馬によって賭博上の負けが発生した際の賭博者における心理的負担の大きさである。落馬によって人馬が怪我をし(安楽死も当然ありえる)、自分も損をした。これは競馬ファンにとっては非常に辛いことであり、誰を責めればよいというものでもなく、心理的な切り替えが難しい。従って、落馬に際した故障リスクの高さとその際の心理的負担への忌避感により、落馬リスクを大きく見積もる心理現象を生んでいる可能性はあるだろう。

付記7. いっそのことアイルランドみたいに自然の地形を生かした障害競馬専用競馬場でも作りません? 大自然の中の競馬、お洒落で広々とした公園と綺麗な建物。野山の美しい風景を満喫しつつ迫力溢れる障害競馬を楽しむ競馬場。広い空、見渡す限りの大自然、 綺麗な建物に立ち並ぶテラス。レースの間には馬を使った見世物や乗馬競技、ポニーレース。ついでにファンも馬のコスプレして走っちゃおう。ファンと騎手の ハリボテエレジー。競馬のイメージ変わるかもよ?

 

・いろんないけんがあってそれがいい

色々雑多に述べてきたが、個人的に上記の選択肢4つにおいて、いずれの立場の主張も無視できないものであると考えている。廃止論はそれだけ日本障害競馬の問題点を大きく見積もっているということであり(某にげうまって人がtwitterでうるさいから障害競馬やめようぜという可能性も含む。ここに心からお詫びを申し上げたい。)、廃止論に対する反対と是正の必要性を主張する立場は上で述べてきたとおりである。加えて、絶対反対を取る立場は(脊髄反射的な反応は除く)、それだけ廃止に対する圧力が高まっているという認知に基づく戦略的反対意見の可能性を憂慮している。

個人的には「人と動物との共生」という概念を理想と捉える立場である。これはより多くの馬が、競馬や乗馬など様々な場面で活躍することを通じて、幸せな一生を送ることが可能な社会の実現を目指す立場である。より多くの場面で、より多くの馬が幸せに過ごして欲しい。すなわち馬事文化の発展と社会へのビルトインの強化である。これに拠って立つ場合、障害競馬そのものは馬の活躍の場として重要であると主張が可能である一方で、現状の日本障害競馬はその実現への貢献が少ないことも指摘できる。すなわち、廃止云々はともかくとして、問題点の洗い出しとそれらの改善の必要性を強く主張する立場である。

 

付記1. もっとも、障害競馬もまた各国にローカライズした形で発展すればよいと考えている。別にイギリス・アイルランド、フランスの真似事をしなくても良いだろう。日本には日本の良さがある。ただし、それが何かしらの問題を生じている場合、その限りではない。

付記2. 繰り返しになるが「障害競馬を使った馬の余生」とそれを踏まえた俯瞰的視点である「障害競馬の馬事文化全体に対する多面的貢献」は重要な論点である。障害競馬を使うことで本当に競走馬寿命が延びると同時に、馬事文化全体としての馬のストックの増大に寄与しているのだろうか? 競走馬の活躍の場の確保といえば簡単だが、故障による淘汰、気性面や性格面の問題の顕在化と固定及び健康リスクの増大を通じたその後のキャリア形成の難化、管理コストの増加による他の馬事文化領域への悪影響、公共に対する感情的な動物愛護精神の誘起による馬事産業への批判の増大を招いては元も子もない。また、この議論の前提としては、平地競争、地方競馬、障害競馬、その他馬事産業、全ての領域においてフロー(流入と流出)とストックを考える必要があるだろう。

 

・でもやっぱみんなでしあわせになろうよ

少しは未来志向のことを書いておこう。

人によって諸説あると思うが、 個人的に障害競馬の魅力は「飛越のスリルとダイナミックな展開」だと考えている。第一に飛越のスリルであるが、これは難易度の高い障害を、障害飛越能力の卓越した人馬が一体となって越えていく姿によって実現される。これはスピードのある飛越でも綺麗な飛越でもない。多少ミスってもへこたれず、バランスを立て直して気持ちを奮い立たせ、勇気を持って次の障害に立ち向かっていく。卓越した飛越能力と持久力。数々の障害を越えてきた歴戦の兵たちが、死力を振り絞って戦い、選ばれしただ一頭の馬とただ一人の騎手が、栄光のゴールを勝利と共に駆け抜ける。そのような勇姿こそが飛越のスリルと感動を生むのである。第二にダイナミックな展開である。これは単なる平地のスピード能力によって実現されるものではない。残り5fからの超ロングスパート合戦、序盤から自らを試すような激しいペースで引っ張り、付いていけない馬は次々と脱落する展開、そのような長距離適性とスピードの持続力、持久力を存分に生かした展開である。 決してスピード能力に優れているわけではない馬たちが、その卓越した持続力と持久力をぶつけ合い、長い距離に渡ってしのぎを削る展開。このような激しいレースを戦い抜き、最終障害まで無事に飛び終えた馬は、最後の直線はもはや歩くようになりながらも、歯を食いしばって死力を尽くしてゴールを目指す。騎手はこれを叱咤激励し、数センチでも前に出るよう必死の形相で馬を追う。これは平地競争では決して見られないものだろう。

ではどうすれば良いのか? 単なる平地のスピード比べと揶揄され、馬も人も都落ちで単調だと言われ、馬は怪我するし可哀相だし見ているのは怖いし、落馬したら馬券は紙くずだしつまらないと言われる障害競馬はどうすれば良いのか?

この良い参考例となるのがVelka Pardubickaを頂点として構成されたチェコクロスカントリー体系とHurdle/Chase競争の区分のある諸外国障害競馬体系である。すなわち、飛越能力の向上を目指した障害競馬体系の強化である。平易な障害(もはや英愛のHurdleでよい)を飛ばせる未勝利戦、及びそのようなHurdleを用いる競争体系として、オープン競争と重賞までを含めたシステムを作り上げる。その上に大きな障害(Fence)を用いるNovice競争とオープン競争、重賞、そしてJG1というレース体系。この障害は最低でも中山における大竹柵レベルの高さが必要だろう。加えて、スピードで乗り切れないようにするた めに、英愛のように搔き分けて飛べないタイプか、さほど搔き分ける必要がない代わりに高い飛越が必要となるMerano競馬場のようなタイプに変更する。 最も権威があり、賞金額も大きいのは巨大な障害を用いるJG1(現状の中山大障害を修正すればよい)であり、全ての馬はそれを目指して障害馬としてのキャリアを駆け上る形になる。HurdleとFence、未勝利とオープン戦、重賞では賞金額は大きく異なる。とにかく平地のスピード能力よりも飛越能力重視のレースシステムである。また、障害競馬のペース(15~16sec/fとか?)に慣らせるため、また平地長距離戦の強化のため、比較的障害競馬で用いられる斤量に近い負担重量を背負う長距離平地戦(イメージは英国のNational Hunt Flat Race)を作っても良い。

負担重量は65kg以上、定量重賞は70kgを背負う。距離は3000mから8000m。牡馬は出来れば去勢することが望ましい。当然、レース規定として著しい疲労や勝ち目がなくなった場合の途中棄権を認める。Hurdle/FenceいずれにもJG1を設け、いずれも国際招待競争、時期は9月と1月といっ たところだろうか。FenceのJG1には、チェコのVelka PardubickaのTaxis Ditchのように特別な障害を設けても良い。現状日本の障害はHurdleとChaseを足して√5で割ったような障害ばかりなので、海外障害馬の参戦は特殊な適性が問われ難しい。このような飛越能力が大きく問われる形になれば海外障害馬の日本障害競馬への参戦、また日本障害馬の海外遠征も容易になるだろう。

馬場も変える。ソフトで芝丈があり、エアレーションを効かせた馬場に変更し、着地時 や落馬時のクッション性を高める。これにより、より一層平地能力ではなく持久力とパワーが問われるレースになる。当然引っ掛かる馬は淘汰される。ペースは落ちるが、より飛越能力を「魅せる」レース、持久力や操縦性、騎手の手腕を問われるレースになり、平地の真似事のようなスピードレースではなくなる。スピードの低下と飛越能力の向上は落馬事故の減少と落馬による故障リスクの低下に繋がる。可能であればより起伏の飛んだコースにしたいが、これはやや難しいかもしれない。ついでにクロスカントリーとか作りたいけれど、これには競馬場の新設が必要だろう。

 

・いいかげんまとめないと

色々書いて来たが、いずれにせよ「人馬の飛越能力の向上」こそが障害競馬における諸問題を解決する鍵であるとわたしは考えている。そして、それには飛越能力を問うレース条件やそれを育むレース体系の構築が重要になってくるだろう。どこからアプローチするかは様々な意見があるとは思うが、わたしは現行のレース体系とレース条件の抜本的な見直しが必要であるとする立場である。メディア露出の増加やレース数の拡大、新規ファン層の獲得といった姑息的な対応は確かに一時的で一部の問題解決に繋がるかもしれない。しかしその文化としての発展性と持続可能性を考えた際には「障害競馬の魅力とは何か」という根本的な問いを「社会における馬事文化全体の発展」という俯瞰的な観点から問い直す必要がある。その中で諸外国における障害競馬のあり方や他の馬事文化は大いに参考になるだろう。

個人的に、今年の中山GJは勝負気配の高い外国馬の出走辞退に始まり、有力馬の相次ぐ故障と離脱、そして手薄なメンバーの中、かつて天才障害馬と言われた実力馬がスピードだけで押し切ろうとする若駒特有の拙く危険な飛越を連発し、障害競馬における一流ジョッキーであるはずの鞍上は全くそれを制御できずに終わるという非常に悲しいレースだった。勝った馬は見事であったが、それ以上にそのレース内容、レースレベル、レース背景が残念でならない。なぜ外国馬がここまで揃いも揃って辞退したのか。なぜ有力馬が相次いで故障し、かつてその才能を高く買われていた馬がなぜあのような惨憺たるパフォーマンスを見せるようになってしまったのか。障害競馬の存在意義をもう一度問い直すと共に、その将来像をJRAのみならず、競馬関係者、競馬ファンは再度考え直す必要があるだろう。