*日本障害競馬における非サラブレッド競争馬について
前述のとおり、1958年時点においては日本障害競馬の上位馬において多数のアラブ系競争馬が認められた。そこでnetkeibaデータベースクラシック*1に基づき、1958年に行われた日本障害競争における全出走馬のリストを作成のうえ、JBISサーチ*2の情報に基づき、各品種毎の頭数をカウントした。
サラ | サラ系 | アア | アラ系 | 軽半 | |
頭数 | 140 | 14 | 77 | 33 | 7 |
Table.4 1958年の日本主要障害競争出走馬における各品種毎の頭数
さらに、netkeibaデータベースクラシックに登録された1958年日本障害競争全350競走について出走馬の品種を調査したものの、サラブレッド及びサラ系競争馬に混じってアラブ系血量を有する軽半種を含むアラブ系競争馬が出走した例は認められなかった。少なくとも中央競馬年鑑 昭和33年*3によると主要障害競争(京都大障碍競走、東京障碍特別競走、中山大障碍競走)についてはアラブ系競争馬の出走制限は設けられていないようだが、1958年の時点で既にサラブレッド系競争馬とアラブ系競争馬の位置付けは異なっていたものと思われる。実際に、1956年に創設されたアラブ大障碍及び1960年に創設された中山アラブ障害特別並びに東京アラブ障害特別の勝ち馬について、前述の中山大障碍等の主要競争への出走歴が確認された馬は存在せず、中央競馬年鑑 昭和42年に記載された各コースのレコードタイムについて、アラブ系の記録がサラ系のそれを上回るものはほぼ存在しない*4。また、既に戦前においてアラブ系競争馬は競走能力の面でサラブレッドに見劣ることが指摘されていたようだ*5。ただし、1958年に行われた個々の競争における品種に関する出走制限の詳細は本調査において不明であり、そもそもサラ系競争馬とアラブ系競争馬で番組編成上出走可能なレースが異なっていたのか、アラブ系競争馬がその相手関係等を鑑みてアラブ系競争馬のみを対象としたレースのみに出走していたのかは定かではない。ただし前述のとおり、1951年の中山大障碍(秋)でミツタヱから5馬身差の2着に入ったホウセイは父が方景、母が第二ナスというアングロアラブで*6、当時のアラブ系障害競争では無敵を誇った馬である。加えて1950年代には多数のサラ系競争馬が中山大障碍を制していたことを考えると、第二次世界大戦前を含めてさらに時代を遡ることで非サラブレッド競争馬がサラブレッドに対して互角以上に渡り合った様相を垣間見ることが可能であるかもしれない。
Figure.2 日本障害競馬の年間競争数(青:全体、赤:サラ系、緑:アラブ系)
合計 | サラ系 | アラブ系 | |
1955 | 283 | 150 | 133 |
1956 | 322 | 169 | 153 |
1957 | 343 | 171 | 172 |
1958 | 353 | 176 | 175 |
1959 | 349 | 182 | 167 |
1960 | 346 | 180 | 166 |
1961 | 308 | 168 | 140 |
1962 | 287 | 168 | 119 |
1963 | 270 | 164 | 106 |
1964 | 289 | 182 | 107 |
1965 | 251 | 185 | 66 |
1966 | 258 | 250 | 8 |
1967 | 225 | 225 | 0 |
Table.5 日本障害競馬の年間競争数
Figure.2及びTable.5に日本障害競馬の年間競走回数を示す。当該数値は中央競馬年鑑*7より引用したもので、上記のとおり当時の個々の競走における品種に関する出走制限の詳細は不明であるが、中央競馬年鑑にはサラブレツド系障碍競走及びアラブ系障碍競走の各競走回数が独立して記載されているため、その数値を引用している。1965年のデータについては昭和40年の中央競馬年鑑が国立国会図書館データベースに掲載されていないものの、中央競馬年鑑昭和42年に競走回数が記載されていたため当該文献から引用している*8。戦後の復興に伴ってレース数を増加した日本障害競馬は1956年当時にはサラブレッド系及びアラブ系でそれぞれ150程度の競争が行われていたものの、1960年代からアラブ系競争はその数を減少し、1966年にはわずか年間8競走、それも中京1回及び中京2回にそれぞれ計4競走が行われたのみであった*9。同年の中央競馬年鑑にはアラブ系障碍競走が2回中京にて廃止になった旨が記載されており、翌年の中央競馬年鑑にはアラブ系障碍競走は実施されていない旨のデータが掲載されている。1965年は1956年に創設されたアラブ大障碍及び1960年に創設された中山アラブ障害特別並びに東京アラブ障害特別が行われた最後の年であるが*10、その僅か翌年である1966年は日本におけるアラブ障害競馬が行われた最後の年となった。奇しくも1966年はフジノオーが英Grand Nationalに遠征した年であり、中山大障碍で圧巻のパフォーマンスを続けたサラ系の最強馬が果敢にも欧州に打って出た一方、アラブ系障害競走はひっそりと姿を消したこととなる。同年のアラブ系障害競争の出走実頭数は14頭、平均出走頭数は5.9頭で、距離2000メートルの競争が1競走、2650メートルの競争が計7競走行われたそうだ*11。netkeibaデータベースクラシックによると、おそらく1966年3月12日に中京2650メートルの距離で行われたアラブ障害特別*12がJRAで行われた最後のアラブ障害競争と思われ、ニユーバラツケー産駒のキヨシという馬が勝利している。ただし同馬はその後少なくとも中央競馬において障害競争に出走することはなかったようだ。なお、当時の中京競馬場2650メートルで使用したコースの詳細は不明であるが、当時の中京競馬場には襷コースが存在し、高さ1メートル20センチ及び幅1メートル40センチの固定障害と高さ1メートル20センチ及び幅1メートル18センチの置き障害が存在したようだ*13。2024年現在、残念ながら上記襷コースは既に廃止になって久しく、中京競馬場では周回コースに置き障害を設置して障害競争が行われているのみであるが、当時は中京競馬場のみならず多数の競馬場に障害競争専門の襷コースが存在していたようで*14、そのコースの変遷は興味深い調査課題である。
1競争あたり平均出走頭数 | 出走延頭数 | 出走実頭数 | 1頭あたり平均出走回数 | |||||
サラ系 | アラブ系 | サラ系 | アラブ系 | サラ系 | アラブ系 | サラ系 | アラブ系 | |
1956 | 6.8 | 6.9 | 1145 | 1054 | 138 | 101 | 8.6 | 10.7 |
1957 | 6.2 | 7.3 | 1053 | 1262 | 145 | 108 | 6.9 | 12.9 |
1958 | 6.4 | 6.4 | 1129 | 1122 | 152 | 117 | 7.8 | 11.8 |
1959 | 7.3 | 6.4 | 1327 | 1073 | 177 | 119 | 7.5 | 8.9 |
1960 | 6.3 | 6.2 | 1136 | 1028 | 162 | 119 | 7 | 8.6 |
1961 | 6.7 | 5.8 | 1127 | 817 | 166 | 112 | 6.8 | 7.3 |
1962 | 6.7 | 6.5 | 1121 | 777 | 185 | 113 | 6.1 | 6.9 |
1963 | 7 | 6.6 | 1143 | 704 | 191 | 96 | 6 | 7.3 |
1964 | 6.8 | 6.4 | 1241 | 682 | 184 | 102 | 6.7 | 6.7 |
1965 | 6.8 | 6.3 | 1253 | 415 | 201 | 71 | 6.2 | 5.8 |
1966 | 8.6 | 5.9 | 1746 | 47 | 255 | 14 | 8.5 | 3.4 |
Table.6 1958~1966年の日本障害競馬における統計情報
Table.6に日本アラブ系障害競馬が終焉を迎えた時期の各統計情報を示す。データは中央競馬年鑑から引用した。ただし、残念ながら1965年分のデータは国立国会図書館データベースに未登録であるため記載していない。また、1966年は上記のとおりアラブ系障害競馬は計8競走しか行われず、データとしては参考程度となる。意外なことに当該期間の出走実頭数はアラブ系障害競馬においてもあまり変わらなかった一方で、1950年代後半には1頭あたり年間平均して10競走以上の出走を行っていたのが年々減少し、1960年代の前半にはサラブレッド系と同程度まで落ち込んでいる。これは同様に平均出走回数の減少傾向を示しながらも、出走実頭数が増加していたサラブレッド系とは対照的な推移であり、おそらくこれは日本全体としてのサラブレッド系及びアラブ系競争馬の生産頭数の推移を反映していた可能性が考えられる。延べ出走頭数の減少が示すとおりアラブ系障害競争数の減少により1競走あたりの平均出走頭数自体の減少はある程度抑制されているものの、1961年にはほぼ半数近い競走で5頭立て以下*15、1962年には前年と比べて競争数が21レース減ったにも関わらず不成立のレースが計9回(1961年は計4回)も発生しているなど、その状況は芳しいものではなかったようだ*16。地方出身のスターホースとして有名なハイセイコーが出現した1970年代からそのナラティブの喪失により日本競馬におけるアラブ系競馬の衰退が始まったと言われるが*17、それに先んじてアラブ系障害競馬は姿を消したことになる。
なお、今般の調査対象外ではあるが、1960年代には浦和、船橋、大井、川崎における障害競争も大井競馬場を皮切りに縮小・廃止となった*18。当時の南関東では活発に障害競馬が行われており、1952年の中山大障碍(秋)を優勝したサチヒカリはその後地方競馬に移籍、川崎と船橋で1950年の中山大障碍(秋)の勝ち馬アシガラヤマを相手に勝利を収めているそうだ*19。川崎競馬場には1900~2700メートルの距離で障害競争が行われていたようで、最も新しい記録としては1966年にサクシユウというアラブ系競争馬が2100メートルの障害競争においてレコードタイムで走破したようだ*20。ただし、当時の南関東の障害競争は殆どがアラブ系競争馬を対象とした障害競争であったようで*21、川崎競馬場で行われていたアラブ系競争馬を対象とした蘭花賞は1965年、同じくアラブ系競争馬を対象とした紅ばら賞は1966年を最後に行われており*22、南関東における障害競争は中央競馬のアラブ系障害競争と概ね同時代に終焉を迎えたものと思われる。
【2024/03/05 追記】
Gate J.東京にて昭和40年中央競馬年鑑のデータを確認したので追記した(Table.6)。情報を頂いた方には改めて感謝を申し上げる。1965年において関東では6回中山、関西では5回阪神からアラブ系の障害競走を廃止、東京競馬場及び京都競馬場においても全廃され、アラブ系障害競走はわずかに中京競馬で存続されたのみとなった。1回中山において計22競走が行われたアラブ系障害競馬だが、その後は15、12、5、9、7競走、東京競馬場でも東京2回では13競走存在していたのが、その後は11、5と、開催を経るごとに減少する傾向が認められた。1競走あたりの平均出走頭数は6.3頭とサラブレッド系の6.8頭と比較してさほど変わりはないが、うち出走頭数4~5頭の競争が全体の39%、6~7頭の競争が全体の46%と、サラ系(それぞれ37%、29%)と比較してもその殆どが小頭数で行われていることがわかる。実際に、昭和40年中央競馬年鑑にはアラブ系障害馬の極端な減少が指摘されているようだが、この記載が単に出走実頭数に基づくものであるのか、実際の現役障害馬の頭数及び障害競走への参戦を見込んでいる競争馬の頭数に関する調査結果に基づくのか、そのエビデンスレベルは定かではない。
*1:競馬データベースクラシック - netkeiba.com
*2:JBISサーチ(JBIS-Search):国内最大級の競馬情報データベース
*3:中央競馬年鑑 昭和33年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*4:中央競馬年鑑 昭和42年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*7:中央競馬年鑑 昭和31-39,41-45年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*8:中央競馬年鑑 昭和42年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*9:中央競馬年鑑 昭和41年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*11:中央競馬年鑑 昭和41年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*12:1966年03月12日のレース情報 | 競馬データベース - netkeiba.com
*13:中央競馬年鑑 昭和41年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*15:中央競馬年鑑 昭和36年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*16:中央競馬年鑑 昭和37年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
*18:川崎競馬倶楽部 川崎競馬 −伝えたい記憶 残したい記録ー